「平和の作り方」(2015年9月11日更新)

「平和の作り方」

今年は、太平洋戦争の敗戦から70年。そしてこのメッセージが発表される9月11日は、世界同時多発テロからちょうど14年目となります。今年、憲法違反の声が根強く叫ばれる中、日本国憲法第9条の解釈を変更し、集団的自衛権を容認する閣議決定がなされました。

「集団的自衛権」とは、自国と密接な国が武力攻撃された際に、自国が攻撃されていなくとも実力をもって阻止する権利のことをいいます。その集団的自衛権が抑止力にならず、むしろ連鎖反応を起こしたのが第一次世界大戦です。
1914年に始まった第一次世界大戦から、1945年に終わった第二次世界大戦までの31年間の出来事で、それまでの戦争に無かった事があります。それは、人殺しを目的とした科学技術の利用です。人類が、刀槍や弓矢や鉄砲など、それまで狩りや漁に使っていたものを人に向けるのは、人間性の誤作動です。生命力の中にある攻撃力の誤作動です。しかし、人殺しを目的に科学技術を駆使して作ったのが毒ガスであり、細菌兵器であり、原子爆弾です。これは、人間性の誤作動でなく、人間性の欠如です。

ここで人間性とは何か?ということを考えなくてはなりません。
約20万年前に人類が登場してから、常に人類にとっての恐怖だったのが、飢餓と貧困です。しかし、20世紀後半になり、人類は史上初めての出来事として「衣食住足りて不幸になる」という矛盾した社会を産み出してしまいました。発展すれば発展するほど、経済的に豊かになればなるほど、なぜか疲弊していくという、これまで経験したことの無い時代に突入していったのです。
人間は、他の動物に比べて、未成熟な胎児を出産し社会の中で育てていく仕組みを持ったために、人間関係を大事にする社会的進化を遂げました。自ら、人間関係の調和を図る知恵を発達させてきた生き物なのです。その調和が乱れ始めたのは、本格的な大量生産が始まり、力を持つ主権国家同士がグループに分かれて対立し、集団的自衛権を行使した結果、第一次世界大戦を起こした20世紀初頭からだと思います。その後の凄惨な歴史は、皆様がご存知の通りです。

20世紀以降、世界では人間関係資本と自然資本の劣化が加速し、自然と人間を経費にした科学技術が高度工業化を推し進め、その延長で高度情報化が進み、巨大で複雑な権力を育ててしまいました。17世紀半ばにホッブズが著した「リバイアサン」に記されているように、コモンウェルス(公益を目的とした政治的共同体)の国家に代わり、自然と人間を経費にして貪り極大化し続ける今の社会システムになってしまっては、国家として社会契約を結ぶことは出来ません。まさに、悪魔になったリバイアサンと言えるでしょう。(※リバイアサンは旧約聖書に登場する海の怪物)

我々が、このリバイアサンに従属する民衆にならず、この手に人としての尊厳を取り戻し新しい社会システムを構築しない限り、真の「平和」は維持出来ません。武力的均衡を維持する目的の集団的自衛権が、より破壊力のある戦争を生み出したのは、2度にわたる世界大戦が証明しています。

では、新しい社会システムとしての「平和の作り方」は、どうすれば良いのでしょうか。
私は、人間性が発揮できる範囲をメインフレームにおきながら、ネットワーク的に増幅するエコシステムを築くべきだと思います。
人間性が発揮出来る範囲とは、不安がシェア出来る範囲の設計です。その不安とは、生命のリスクであるエネルギー・食料・資源の最低自給システムと、人生のリスクである医療と教育の共済システム、そして介護と育児の共助システムが動く範囲を指します。

中央集権的な生産と情報の時代は、すでに終焉期に入っています。この時代は、関心と興味が経済を動かしていたとも言えます。しかしこれからは、意思や主張の経済へ移行していく、つまり受動的市場から能動的な市場へと変化が起きていると思います。言い換えれば、生活必需品の消費経済の時代から、アイデンティティーを表現するライフスタイル必需品の消費経済の時代へシフトしているのです。
このような、能動的消費経済の社会においては、上質な生活が基準になります。大量消費の最大幸福という近代システムをエンジンにするのでなく、少量消費の最大幸福が軸になります。こうした時代にあった社会的行動動機に基づく商品やサービスの提供をすることで、人間と自然の調和が持続していくようになります。

繰り返しますが、リバイアサンである今の社会システムに代わる仕組みを作らなくてはなりません。それは、リスクをシェア出来るスコープ(範囲)経済の中で、上質なライフスタイル必需品を求める能動的市場を成立させ、社会的行動動機を促すことで、自然資本と人間関係資本を増加させる社会です。そして、それこそが「平和の作り方」だと思います。

国民とは「国家が国籍を与えた人々」を指し、市民とは「理想を持った人々が集まる事」を意味します。王が腐敗したら、貴族が理想を持ち、貴族が腐敗したら、市民が理想を持って立ち上がった歴史があります。
では市民が理想をなくし腐敗したら、新しい市民が生まれるのか?我々は今、歴史から問われています。

2015年9月11日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役 熊野英介

会長メッセージ


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※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。

※啐啄同時(そったくどうじ)とは

 鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。

 このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。