しごと(2015年5月11日更新)
「しごと」
(2015年5月11日掲載)
「五月病(ごがつびょう)」という、病気では無いけれども「病名」がついている言葉があります。 新しい職場や学校の環境に適応出来ない適応障害のことを言うようです。
そもそも人類は、一人で新しい環境に適応出来る動物なのでしょうか。
私は、出来ない動物だと思います。
なぜなら、人類は単独ではなく、社会というつながりに依存するという本能があるからです。
巣を持つ狼や狐は、子供の時から排泄行為は巣の外で行います。そうしないと生活空間が汚れ、病気などの感染症にかかり生存確率が低くなるためです。
一方、人間の子供は、生活空間の中で排泄行為をしてしまいます。生活空間を汚染しないということが本能に組み込まれていないからです。しかし、周囲の大人や兄弟がその世話や教育を行い、清潔な住環境を維持することで、種の繁栄を保ち続けました。それは巣を持たないライオンや虎のように、居場所を移動することで食欲と住環境を整える動物の本能を持ち続けている事にも似ています。
そう考えると人類は、先天的には放牧の本能を持ちながらも、後天的に巣を守る本能を形成していったのではないでしょうか?誰かに教えてもらい、訓練しないと生活空間を汚染してしまう。人類は、新しい生活環境に一人では適応することが出来ない「社会的動物」と言えるでしょう。
ジャングルからサバンナに追い出された人間達は、故郷のアフリカから追い出され、ユーラシアからも追い出され、アメリカやオーストラリアなどに広がって行きましたが、ひとりぼっちで新しい環境を開拓したのでありません。そこには必ずお互いを守り・協力し合う仲間がいたと思います。人類は仲間と新しい環境へ適応するために、後天的な本能として「社会」という巣を守るため「しごと」という方法を発明したと思います。
「しごと」とは、
- くらし(自給経済) → 自分の生活の関係
- 「もったいない」 → 生活の個性
- つとめ(贈与経済) → 地域の生活の関係
- 「おたがいさま」→ 存在の確認
- かせぎ(貨幣経済) → 市場の関係
- 「はたらきもの」→ 活動の自由
と多面的な意味をもつ活動です。
しごとを通じて、関係性が個人から地域、地域から市場へと広がって行く過程で、先天的な「活動の自由」という本能を満足させながら、さらに後天的に備わった「社会的な巣の維持」という本能をも満足させてきたのではないでしょうか。
しかし、現在は行き過ぎた工業社会になり、効率化こそ技術であるという、合理的思考が社会の合意形成におけるマジョリティーな価値観になって「かせぎ」が時間の効率に置き換わっていきました。
その結果、個人的な生活の関係である「くらし」は現金化出来るものになり、地域の生活の関係である「つとめ」は無駄な時間になり、人々は孤独になっていったのだと私は思います。現金主義と孤独感が広がる今、人々は環境適応に悩み出しました。
そもそも「かせぎ」も
- 作業( 作務 )→決められた事をやる/労働量と貨幣の関係
- 業務( 職務 )→貨幣価値を超える価値の獲得/労働質と人生との関係
に分けられます。
よく言われるワークライフバランスという言葉は、1日のなかで活動する時間の半分は、貨幣収入のために犠牲にしているので、時間的余裕を確保して残りの活動時間を人生の豊かさに使うという意味なのでしょうか?それでは、人生の活動時間の半分は豊かでないという意味になってしまいます。
人生を豊かにしようとすれば、労働量で時間を貨幣交換するのでなく、労働の質で時間を交換することにすることが大事だと思います。「ワーク」と「ライフ」は、切っても切れない関係です。つまり、ワークライフバランスでなく「ワークライフミックス」なのです。
仕事に合わせた人生の時間でなく、人生の質に合わせた仕事を考えてみましょう。
ライフワークミックスの「かせぎ」は、貨幣以外の収入として、価値観を同じくする良関係や、経験・知恵が手に入り、それらを使って個性を発揮する機会を得ることができます。これらは、すべて貨幣価値には換算できないものです。貨幣価値に換算できないものを「つとめ」や「くらし」に資する価値と交換すれば、「しごと」は環境適応するために人生に必要な良関係を手に入れる重要な手段となります。
近代社会に君臨している「効率」という常識から、「効果」を重視した、質を問う人間社会にするために、作業から業務へ、業務から「しごと」へ、というワークライフミックスにする意識は、自らが古い常識を捨て、新しい常識を作る気持ち次第です。
今、人類は地球という巣を汚染しています。空気や水を汚染し、生態系を汚染し、食料を汚染し、身体を汚染しています。それだけでなく、国家が良ければいい、地域が良ければいい、家族が良ければいい、自分が良ければいい。それが他者に迷惑をかけなければもっといい!というように、心をも汚染しています。
「迷惑をかけずに、自分の人生を過ごす」という事が、いかに人工的な管理社会でしか成立しないことは、自明の理であります。生態系は、全てが全てに関係をし、関わりあいながら社会を構成しています。どんなものも単独で「自分」は成立しません。
このように、身体を汚染し、心を汚染することでは、人間生物の持続可能性は収縮するばかりです。部分最適の「効率」が作る最善が、全体最適の「効果」を最悪なものにしています。部分の合計は、全体を超えると言われる生態系の「効果」を最善なものにしないと、地域という住処(巣)は、汚染されてしまいます。
「しごと」という多面的な活動を自覚して、新しい近代を作りたいものです。
2015年5月11日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 熊野英介
会長メッセージ
※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。
※啐啄同時(そったくどうじ)とは
鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。