「弱者なれども、勇者なり!」(2016年3月11日更新)

「弱者なれども、勇者なり!」

東日本大震災から5年が経ちます。
もう5年なのか、まだ5年なのか。
震災当初、被災地の人々は全員が弱さを見せました。全員が弱者でした。
お互い様の気持ちで支えあっていました。そうやって不安や感動をシェアすることで、個々の負担を軽くし、うれしい事があれば皆で喜び合っていました。

現在、被災地には「人生の不安」という生活の不安と、経済の不安とがあります。
そしてそれは、課題先進国である我が国の不安そのものでもあり、時が経てば経つほど、その不安の解決は難しさを増しています。

人類の脳は、不安を認識することで発達したといわれています。
人類は弱者であるが故に、厳しい自然環境や外敵という「不安」から身を守り、生き延びるために、知能を身につけ、仲間と協力しあうことで不安を解消し、発展をしてきました。その長い長い歩みの中で、感動を共有して幸福を感じ、知恵を蓄積し、リスクをシェアして、安心を手に入れる社会を作ってきたのです。

いま、人間は、現状の不安を個人の能力のみで解決しようしています。
解決しようと努力をすればするほど孤独になり、そして、解決できずに絶望しています。

何故、人間性の本能を呼び覚まし、お互いのリスクをシェアして、不安を解決することが出来ないのでしょうか。
それは、社会が大きくなりすぎ、脳が不安を自分事として認識できなくなったからです。

明治の日本は「富国強兵」のスローガンのもとで近代化を進め、それまで個人のリスクをシェアしてきた小規模な共同体を壊し、国民国家を形成しました。この大きな共同体では、個人の権利よりも義務を課して、個人の尊厳を否定してきたのです。その結果多くの人が命を落とし、傷つけられてきました。その反省として、戦後の社会は、平等社会を作りました。しかし、そこには「義務を果たし、公平な権利を獲得する」という自主的行動の前提が希薄であり、国民国家の習慣のまま、公から交渉で権利を手に入れるという依存した平等感になりました。この誤った平等社会は、嫉妬を増幅させ、市民の被害者意識を固定化させてしまい、主体的に社会構築に参加しない傍観的批評家を増やしてしまったのです。これは、歴史的な経緯という側面もありますが、国家という共同体の存在が人間の脳には認識できないレベルまで大きくなりすぎているという、生理的側面とも言えるでしょう。


不安を自分のものだと認識できる小さな共同体に対し、義務を果たした結果、公平な社会的評価を受ける、そんな平等社会を作りたいものです。
このような、平等な社会システムを構築することこそが、本当の地方創生だと思います。
個人が抱えるリスクを共同体でシェアして、逆に感動を共有することこそが「人生の不安」を取り除き、生活の安心と経済の安心を手に入れることにつながるのです。

現在、被災地だけでなく、社会全体が不安に満ちています。
しかし、我々は、微力であるけど決して無力ではありません。
豊かに生きることを諦めず、厭世主義にならずに【弱者なれども、勇者なり!】と高らかに、幸せになる権利を獲得する為に、国家に頼らず市民が起つ!という気概が大事なのです。
市民とは、理想の元に集まった民衆のことをいいます。
市民が欲する理想は、市民が実現するしかないのです。

例えば、1万人の被災者がいる地域があり、そのうち約3000人の人達は年金を取得していると仮定します。
この3000人の市民が、理想社会を構築する為に20万円の投資をすれば、6億円の資本金を持つ地域運営組織が生まれます。この組織は市民の社会保障を担う事業を行います。社会保障を受ける市民は、投資をしているので事業が続くようにサポートします。市民が少額の資金を出し合い、市民が事業を実行する。こういった互助の精神を持つ官業民間組織を作ることが大事なのでしょう。

もう5年。
まだ5年。
東日本大震災から多くのことを学んだ我々は、無念の思いでこの世を去った人達の分まで、希望を手に入れて幸福に生きていかなければなりません。

2016年3月11日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 熊野英介

会長メッセージ


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※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。

※啐啄同時(そったくどうじ)とは

 鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。

 このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。