第3回「生命の尊厳」(2017年5月11日)

2017年度啐啄同時は「新しい時代~innovation3.0~」をテーマに、近代の時代背景を紐解きながら、新しい時代を切り拓くために必要な「イノベーション力」について連載します。



第3回「生命の尊厳」

世界各地で難民問題が議論されている中、日本は現在積極的な受け入れを行っていません。しかし実は、荒ぶる天変地異の国である日本は、その昔、各地の権力者から逃れた弱き者たちが集まる、いわば難民大国ともいうべき歴史を持っているのをご存知でしょうか?我々は、その国の成り立ちから、自然畏敬の「無我」の追求と人間賛美の「自我」の追求を経験してきた国民なのです。
これから、地球環境問題がさらに深刻化し、天変地異が世界各国で頻発し、水や食料や産業が不安定になり、地球規模で膨大な人数の難民が発生する時代へ突入していきます。今こそ、近代を興した「人間の尊厳を守る」という哲学から「生命の尊厳を守る」という新たな哲学を確立し、それに基づく科学、技術、産業、そして社会の在り方を見出し、新しい文明の価値基準を創らなければなりません。

連載第3回目は、この「生命の尊厳を守る」という価値観に至る背景とその本質について考えてみたいと思います。

私は「近代」は西洋から広まった「人間の尊厳を守る」という価値観の成立で始まったものと感じています。14世紀に西洋で生まれたルネッサンスの人間復興に始まり、宗教改革の「自我」の確立というプロセスを経て、18世紀半ばの産業革命によって力を得た中産階級の人々による市民革命が、「人間の尊厳を守る」という哲学、価値観を確立させていきました。この近代の価値観は世界に広がり、次第にエスカレートし、21世紀の初めには地球環境問題を引き起こすに至ります。そして今もなお、多くの人々がこの価値観に従った生き方を目指しています。

では日本はいつ、この近代の価値観に呑まれていったのでしょうか?

日本と西ヨーロッパには、11~13世紀前後に封建制度を経験したという共通項があります。しかし、西ヨーロッパがその後「自我」の確立から「人間の尊厳を守る」という哲学に向かったのとは逆に、日本は「無我」の日本文化を確立していくのです。
前述のように、日本は古代より天変地異と共にある国です。樺太からの狩猟民や黒潮の民、朝鮮半島の民族など、多くの人々が、地域の権力者との戦いに敗れ、また支配を逃れてこの地にたどりつきました。その結果、多くの文化が重層的に混ざり合い、化学変化を起こし、独特の文化を形成したのです。13世紀後半から禅宗が広がり、その精神と肉体を区別しないという教えは「自我」を否定し、「無我」を追求するものでした。そこには、常に身近にある自然への畏怖がありました。
寺田寅彦は言います。「われわれの足もとの大地が時として大いに震え動く、そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう。」と。日本人は大いなる自然の美を称賛し、神々に対する畏敬の念を文化芸術に昇華していきました。狂いのないシンメトリー(対称)を美とする西洋に対し、日本人がアシンメトリー(非対称)や歪曲性を愛するのは、変幻自在に変化し、二つとして同じもののない自然を美の基準としているためと言われています。神道と仏教が徹底的に対立することなく市民の生活の中で融合し、同じ土地に祀られている日本のありようは、世界の宗教観からは珍しいものですが、これも日本固有の神道が自然宗教であり、特定の教祖や経典を持たず、そのため他の価値観に対し寛容であったことが関係しているのでしょう。

この日本人の美意識は「あはれ(憐れ)」という無常観を生み、さらに武士の世には、その死にざまを「あはれ」ではなく、賞賛の想いを込めて「あぱれ(天晴れ)」と表現するようになります。この「あはれ」「あぱれ」はのちに禅宗の影響を受け、侘び寂びや傾奇へとなり、江戸期には粋(イキ・スイ)という価値観に統合されていきます。
西洋のような際限ない自由獲得への欲求ではなく、制限があるからこその美意識を極める侘び寂び、粋(イキ・スイ)という日本文化は、自然崇拝なしには生まれなかったでしょう。人間の持つ暴力性を、武芸という芸能にかえ、さらに武士道という精神性の修行に昇華したのも、「あはれ」を尊ぶ当時の日本人の価値観・美意識ゆえのことと思います。

しかし。
明治の世になり、富国強兵が始まると武力は再び暴力性を帯び、さらに戦後、欧米様式の生活スタイルを豊かとする考え方が「無我」から「自我」へと、急速に日本人の心のありようを変えていきます。急激な工業化を背景に人々は自然を尊ぶことをやめ、経済は本来最大の資本であるはずの人と自然をコストとして扱い、やがて次々と取り返しのつかない公害問題を引き起こすこととなりました。

そして今。我々日本人は、次なる時代の価値観を創れるのでしょうか?
2017年は、ロシア革命からちょうど100年の節目です。「平等社会をつくる」という理想のもとに起きた社会主義革命は、資本の再配分を権力に依存したため、権力と資本の格差が生まれ、結果的に不平等な社会を作ってしまいました。
また、自由競争に基づく資本主義は公平社会を目指しましたが、シュンペーターの「資本主義は、成功すればするほど失敗する。」の名言通り、資本主義の成功者は既得権益者となって変化を好まなくなり、社会主義化したため、結果的に不公平な社会を生み出しました。
社会主義革命も市民革命も、共に「人間の尊厳を守る」という近代の理想のもとに興ったものでしたが、残念なことにそのいずれも目指す社会を実現できませんでした。さらに現在、行き過ぎた工業化社会は、人々が生きるための意思決定をする自治力を弱め、いつの間にか極大化した近代システムに人々が合わせて生きていく世の中になりました。「人間の尊厳を守る」ことから「システムを守ること」を優先する誤作動が起きているのです。

私たちは考え、行動しなければなりません。先人たちが愛し、畏れ敬った自然を未来の子供たちに残していく責務があるのです。特に企業人は、その事業で、サービスで、人々の生活スタイルや価値観をも変える影響力を有しています。「人間の尊厳を守る」という哲学から「生命の尊厳を守る」という哲学を、事業家や企業人をはじめとする民が主導で確立し、次なる文明の価値基準を創らなければならないのです。
今、この価値観の転換に基づく社会イノベーションを目指し、社会の持続可能性を追求する企業による有志連合を立ち上げようとしています。近日中に、皆様に詳細をお伝えできるかと思います。強い意志を持って未来を創る同士が集まることを心より願って。



2017年5月11日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 熊野英介




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※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。

※啐啄同時(そったくどうじ)とは

 鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。

 このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。